2002年4月16日 音松荘から夕沢山塊
この日は、シシ山の4日目であった。4月の12日と13日、14日は、それぞれ浅草岳のスキーツアーのスタッフとしての仕事が有り、シシ山には行くことができなかった。
13日と14日の日も、シシ山は近くの山で行われており、その情報は逐次入っていた。
生憎、15日は民宿旅館組合の研修会が有り、昼間から酒宴が行われた関係も有り、天気は良かったが、行けずじまいであった。
まさしく、16日は、満を持してのシシ山であった。
16日は、自分ひとり若干遅れての参加となり、直接現場に直行した。
年の若い中から、武士氏、自分、F氏の順で、後はベテランの面々である。
音松荘から出発したのは、上記の4名のほか、ベテランのM氏とカン氏である。すなわち、そこを出発したメンバーは5名であった。
音松荘の近くから、夕沢林道は、破間川ダムの周辺をぐるりとサイクリング道路となっており、夕沢橋を巻いて、鬼が面山の麓まで至る林道が続いている。
およそ、2時間近くこの林道を歩き、造林地を経由して、夕沢に至る途中から、スギの造林地に入っていく。
途中で夕沢を越え、小高石沢を越えたピークで、それぞれ、別班からの連絡が有り、シシの居る位置が大体特定出来ていたようだ。
小高い小ピークで、それぞれにコースを分かれ、リーダーのM氏はF氏とともに、更に標高の高い部分を通り、鬼が面山の避難小屋方面に向かって歩き出していった。
残った人員は、武士氏と自分の2名である。
ゆっくりと、別班は捲きを開始し始めているような連絡であった。
しばらくして、武士氏と自分に、一本松沢の鉄塔のあるピークまで来るように、連絡があった。
しかし、沢を2〜3カ所越えなければならないし、雪の無い所も有り、崖を下り、藪こぎをするなどして、なかなか容易ではなかった。
ゆるやかに、しかし、徐々に捲きが出来上がっているような情報が聞き取れた。鉄塔の有る尾根に着くと、我々に対しての指示は全く無い。
こちらから、リーダーから指示を仰ぐ。
リーダーからの連絡が有り、近くにカン氏がいるから、そこに取り合えず行け、と連絡が入る。
カン氏の踏み跡を追い、カン氏と合流する。
カン氏の指示で、武士氏は前方の対岸の尾根に登るように命ぜられる。
自分は何処に着けばいいか、カン氏に尋ねると、カン氏は、しばらく自分と一緒に待機するように命じた。
直ぐ、リーダーM氏からの連絡が入り、自分に対しての指示があった。
しかし、場所がよく解からない・・・沢の名前がよく解からないのだ。
シシの居場所が、かなりに詰まってきているような切迫感が有る。
自分が、あまりよく解からなそうに、受け答えをしていると、リーダーのM氏は、カン氏が地形を良く知っているから、カン氏に良く聞いてから動け、と連絡が入った。
カン氏は、実は耳が遠いので、ゆっくりと、念を押すように、自分の立つ位置を確認した。
しかし、カン氏の指示した尾根は、すでに武士氏が向かっている。
シシを捲く展開は、徐々に早まっており、一刻も早く動かなければならないような、切迫した雰囲気を感じ取り、取り合えず動こうという感じで移動を始めた。
尾根の始点付近で、武士氏と、お互いに行く位置が同じだということはおかしいのではないかと、小声で話す。
しかし、もし間違っていれば、正面に我々の動向は人目で見える筈で有り、違っていれば連絡が入る筈、と歩を進めた。
ただ、ここで問題だったのは、自分と武士氏の動向を、リーダーのM氏の場所からは見えない位置であったのだ。
しきりにリーダーM氏は、自分の場所を聞いてくるが、何せよく解からないので、尾根に着いてからもしゃべり過ぎてしまう。加えて、シシの位置もよく説明されていないものだから、実質的にシシの正面に向かってしゃべる結果となってしまったのだ。
シシは、ずいをとった模様で、動き始めていた。
とし氏が、しきりにシシを良い位置に呼び込もうとするが、結果的にシシは、全く人の居ない場所を抜けて逃げてしまった。
自分としては、諸先輩方の情報のやり取りが、矢のように耳に刺さり、大失態、であったようだ。
全く、キツネにつままれたような瞬間であった。
結果的に、自分が1番悪者になってしまったが、猟暦15年の自分に対して、臨機応変に対応してくれるだろうと、諸先輩方の判断だったのだろうが、結果的に臨機応変に動くことができなかった。自分に対しての価値が大幅に低評価された瞬間でもあった。
まさに穴があったら入りたいような心境であったが、これを通り越さなければ先に行けないと思った日でもあった。
いずれにしても、猟歴15年の忘れられない一日であった。
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